2014年4月27日日曜日

【書評】反貧困 (湯浅 誠著) 〜知られざる日本の貧困問題〜

 「日本は豊かな国だ」という考えがいかに軽率であることか。本書を読みながら、後頭部を殴られた思いがした。そして、これまでずっとメディアや政府が提示する日本の姿を妄信し、「リアルな姿」から目をそらして来たこと痛感した。

 もちろん、日本が“いわゆる”「豊かな国」であることは依然として疑いようがない。GDPは世界3位、サラリーマンの平均年収は2012年末の時点で408万円。これは世界の上位0.83%に入る(※)。世界の平均“年収”が約10万円であることを考えると、日本は世界的に“稼いでいる”国と言える。

 こうした統計データに頼るまでもなく、「日本が貧しい国だ」と思わせる要素は微塵もない。街を歩いていてもすれ違うのは“普通の”(中流の)人ばかりであり、どの場所もきちんと整備され、スラム街もなければ物乞いに出会うこともない。


貧困大国「日本」

 しかし、そんな日本の水面下で今、「貧困問題」が社会を蝕みつつあるのだ。上に示した「稼ぐ国」のデータからは想像はつかないかもしれないが、日本の貧困率はOECD諸国内で米国に次いで第2位。まさに「貧困大国」といっても過言ではない(※※)。

 貧困状態に追い込まれた人の自立のサポートを行うNPO法人「もやい」の事務局長を努める湯浅誠氏のところには、毎日のように貧困に喘ぐ人から相談が来る。少し前までは、多くが失業者やシングルマザーだった。

 しかし、近年、「今働いているにも関わらず生活していけない」という人の相談が増えたという。しかも、以前は中高年単身男性や母子世帯が中心だった世帯構成も、若者単身世帯や家族持ちの一般世帯等と多様化してきた。

 例えば、本書に出てくる40歳の男性は、重度の腰痛と精神を患った妻を抱えながら日雇い労働で働き、格安のユースホステルとネットカフェを点々としている。

 また、派遣で働く34歳の男性は、月収8万円のため、ネットカフェにも泊まることができず、仕事がない週3日は夜通し歩いて始発電車に乗り、終点までを2、3往復して仮眠を取り、また夜通し歩き続ける生活を繰り返している。

 この中には、我々の目には映っていない「日本のリアルな貧困」の姿が、実際に湯浅誠氏が出会った人々のエピソードとともに投映されており、単なるブログの一頁で伝えるには無理があるだろう。


歪んだ「貧困への認識」

 この本の中にあるような貧困状態で暮らす人の数は、湯浅氏のような「反貧困の現場」で働く人々の直感ベースでは、確実に増えている。なぜ、直感ベースではという歯切れの悪い言葉を使わなくてはいけないかというと、政府がこの問題に向き合わず、調査を行わないからである。

 小泉政権下で当時、総務相だった竹中平蔵氏は「社会的に解決しないといけない大問題としての貧困はない」と発言した。未だに変わらないこの政府見解は、「日本の貧困は、世界の貧困に比べたら、まだまだ騒ぐに値しない」という我々世間一般の考え方に後押しされている。

 よくメディアでは、国連が定める貧困基準を引用して「一日一ドルで暮らす人々」が取り上げられる。しかし、貧困の実態をその人の所得という一つの要素だけで理解することは軽卒であるし、上記に例を挙げた日本の貧困者が一日一ドル以上の収入があったとして、日本に貧困がないことを意味するはずが無い。


貧困は誰のせいか

 しかし、貧困問題の認識を別にして、日本では「人並みでない人」に対する理解が乏しいように私には思える。今の日本では、就職に失敗したり、事業に失敗したりする人に対し、「自己責任」というラベルを貼付けられる。

 逆に、努力をして、厳しい受験戦争に勝ち抜いたり、大企業に就職できたり、ミュージシャンとして成功した場合、その賞賛は全て自分のものにできるし、周りからもそう認識される。

 もちろん、毎日死ぬ気で勉強し、難関大学に合格した場合、「自分ががんばったから受かった」と考えるし、考えたい。来る日も来る日も曲を作り、路上で歌い、最後に勝ち取った歌手としての成功は、「自分の努力のおかげだ」と考えるし、考えたい

 そして、実際にその考えは間違っていない。しかし、やっかいなのは、返す刀でそれが「条件の異なる他者」に向けられるときだ。


「自分もがんばったんだから、おまえもがんばれ」という言い方は、多くの場合、自分の想定する範囲内での「客観状況の大変さ」や「頑張り」に限定されている。そのとき、得てして自他の“溜め”の大きさの違いは見落とされる。それはときに抑圧となり、暴力となる。
 ここで湯浅誠氏が言う“溜め”とは、人によってそれぞれ異なる「“見えない”リソースの大きさ」のことである。例えば、失業したときに「うちに来いよ!」と言ってくれる友人がいるか、病気になったときに助けてくれる家族、親戚がいるか、貯金があるか、健全な体をもっているか、等様々な要素が“溜め”となる。

 そして、日本において貧困状態にある人は例外なく、この“溜め”の欠如が起因しているのだ。上述したネットカフェ等を転々とする夫婦や派遣の男性も、子供の頃に両親を亡くしたり、黙って出て行かれている。また、それが原因で精神を患ったりしている。学歴がないのも、健全な心身というリソースがないのも「その人の自己責任」なのだろうか
 
 日本の貧困を知ったからといって、私たちに即座にできることは少ないし、苦境にある人を、競争社会の残酷性から開放することは極めて難しい。しかし、何にも増して重要なのは、自分と違う状況下にある人の“溜め”を見ることではなかろうか。

 今の社会は、あたかも「選択の自由(職業、結婚等々)」が皆に平等に与えられているかのごとく我々を錯覚させる。即ち、誰もが同じスタートラインかつ同じルールのもとでの競争社会にように思い込んでしまう。しかし、「貧困問題」というひずみが今示しているのは、このようなユートピア的な社会の限界性に他ならない。

 次回は、日本の貧困問題を取り巻く現状と潮流をシステムシンキングを用いて読み解くことを試みる。


※国税庁の民間給与実態調査および年収比較サイト「Global Rich List」より
Global Rich List
http://www.globalrichlist.com/

※※国際日本データランキング
http://dataranking.com/table.cgi?LG=j&TP=Povertyrateaftertaxesandtransfers(ofthosebelow50ofthecurrentmedianincome)&CO=Japan&RG=0&TM=late-2000s



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